図書館ブックフェア・“伝記”
佐野眞一氏講演会:「読む力、聞く力、学ぶ力―私の評伝取材・執筆術」

 1月21日(土)、あいにくの雪となりましたが、ノンフィクション作家の佐野眞一氏をお迎えして、“伝記”という今年度の図書館ブックフェアのテーマに即して講演会が開かれました。遅くなりましたが、以下、そのお話の内容を不十分ながら報告します。

 冒頭、「週刊新潮」50周年記念号に掲載される小評伝としてお書きになった斎藤十一という人物について教えていただきました。斎藤十一は本校の卒業生で、新潮社の名編集長として週刊新潮を育て上げた方で、昭和の滝田樗陰(大正期に「中央公論」を総合雑誌として確たる地位あるものにした)とも言える人物だそうです。その斎藤十一は、雑誌作りの基本として、記事を書くとは、自分が知りたいこと、読みたいことを書くのであって、誰かを喜ばせるためにとか、誰かの気に入るように書いたのでは、人を感動させることはできないと記者たちに語っていたそうです。そしてこのことは、評伝を書く場合にも、ひいてはものを書くこと一般にも通ずることだとして、本題に入ってゆかれました。

 最近、活字離れという言葉をよく聞き、読む力が衰えてきたと言われているけれども、読む力とは、単に活字を読むだけの力ではないのです。読むとは、人の気持ちを読んだり、風景をよんだり、また、危険を察知することでもあって、そういった読む力全体が衰えているわけで、身体能力そのものの衰えだと言えるでしょう。そして、それは、メディアをめぐる環境の激変、これまでの本という最強のビークル(情報の乗り物)が出会っている情報環境の激変、その中でのわれわれの戸惑い、混乱の反映なのではないかと思われます。

  インターネットという情報獲得手段について考えてみると、それはいわば出来の悪いミサイルのようなものであって、いきなりポイントに着弾してしまう。そして、その情報を手に入れて安心するとともに、そうして得られる情報を欲しているかのような錯誤を犯すのです。確かに、インターネットで情報を得ることには無駄がなく、合理的ではあるけれど、それでは、単にピンポイントを知るだけであって、読む力、ひいては考える力は育たない。僕のやり方は、現場に歩いて行って、見て聞くことです。譬えてみるならば、ミサイルではなくて、ヘリコプターでホバリングすることです。それは、無駄を厭わない、敢えて言えば、無駄を楽しむやり方なのです。

 僕は、中学1年の時に図書館で、宮本常一の『忘れられた日本人』に出会ったのですが、それは、高度経済成長期において誰も見向きもしない、無駄であるような人々について書かれており、それを読んで子どもながらに強い衝撃を受けました。その衝撃によって胚胎したものが40年近くずっと僕の中にあって、『旅する巨人』を書かせたのですが、まさに本は、インターネットと違って遅効性のメディアであると思います。そして、その『忘れられた日本人』はすぐれた作品がどのように生まれるのかをも示しているのです。すなわち、そこには、すぐれた耳の技術、聞き取りの技術、よく見る技術、読み取る技術が示されています。宮本常一は非常にたくさんの写真を撮っていましたが、なんの変哲もないような写真1枚からもそうした技術を窺うことができます。たとえば、どこにでもあるような流木の写真も、流木の上に石が置いてあることによって、その流木には第一発見者としての所有者がいることを示しており、そうしたルールを人々が認め合っているという相互扶助の精神があることを物語っているのです。このような例に示される、宮本の読み取る力、聞き取る力の前提にあるのがよく歩くということであって、現場を歩くことによって、物事に対する深々とした理解、生きる力、学ぶ力が培われるのです。その意味で、現在の教育に欠けているのは、インタヴューとフィールドワークだと思います。人の話をよく聞いて正確に理解する、外に出て風景や人々を見て何かを感じ取る能力が強く求められていると思います。

 宮本常一は、故郷を出る時に父親の善十郎から10箇条の言葉を言い渡されましたが、その言葉は、評伝を書く上でも、生きていく上でもとても大切なことを教えています。その10箇条の中で、「新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登って見よ」ということ=鳥瞰と同時に、地上の視点、いわば虫の目(虫瞰)の重要性を説いています。10箇条の最後の言葉は、「人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。」というものでした。

 自分の仕事に即した具体例を挙げてみましょう。以前、NHKの「ようこそ先輩」という番組に「人の話を正確に聞く」ということをテーマにして出演しました。その際に、阪神大震災の話をして、高速道路を走っていた大型バスの運転手が寸断された道路から降りてきて、コンビニで何を買ったと思うかと子どもたちに問いかけてみました。その問いかけにいろいろな答えが返ってきたのですが、正解はカメラでして、その運転手は寸断された道路の下から自分が運転していたバスを撮ったのです。その人は写真好きでも何でもないのに、カメラを買って、自分が運転していた、今にも落ちそうにしているバスを撮ったのです。シャッターを切る瞬間、恐怖が来て手が震えたそうです。このことを通して子どもたちに、人間は実に不思議な動物だということと、人間は記録する動物だということを告げました。そうすると、子どもたちは、「わーすごい」と言ったのですが、大事なことは、「すごい」と言っただけでは「すごい」内容は伝わらないということなのです。だから、言葉というものが大事なのであり、現場に行って、人の話をよく聞かなければならないのです。自分の目で見、感じ取ったものをどう伝えるかということが問われるのです。もう一つ例を挙げると、世界貿易センタービルへのテロについて取材にいった時の話なのですが、現場で取材をしていたら、一人の女子高生が話を聞かせてくれました。その話は、自分はビルの100階位から飛び降りた女性の一部始終を目撃していたというものでした。僕は、その時あなたはどうしていたのと尋ねたら、彼女はその女性から目が離せなかったと答えたので、さらに、なぜ眼が離せなかったのかと尋ねると、眼を離すと死んでしまうと思ったからだと答えたのでした。目を離しても目を離さなくても、その人は死ぬのです。しかし、目を離せないのが人間なのです。このことからも、人間は不思議な動物であり、記録する動物だということが言えるのですが、そのことは、単に抽象的にそう言っただけでは決して伝わらないことなのです。

 宮本常一は深々とした言葉をたくさん残していますが、その中に「記憶されたものだけが記録される」というものがあります。僕はそれを逆さにして、「記録されたものしか記憶されない」と思って、ノンフィクション作家として評伝を書いたりしてきました。そのような僕にとっては、学ぶ力、生きる力としての学ぶ力とは、人の話を正確に聞き取って正確に理解して、自分が今いる立ち位置、ポジショニングを確認することです。自分は今どういう時代に生きているのか、どういう家庭環境に生きているのか、どういう国家に生きているのか、それを理解することが学ぶ力、生きる力だと思っています。

 柳田国男は、民俗学とは「かつてこの国土に生まれた者、現在この国土に生きている者、将来この国土に生きる者ための学問」だと言っていますが、僕もそういう気持ちで書いてきており、すぐれたノンフィクションはすぐれた民俗学になると思っています。また、歴史学者のE・H・カーは、歴史とは何かと問われて、「現代の光を過去に当て、過去の光で現代を見ることだ」と言っていますが、僕もそう思って歴史に対しています。さらにまた、映画監督のアンドレ・バザンは、ゴダールの師匠であった監督ですが、ドキュメンタリー映画について、「捕虫網は使わない、素手で蝶を捕まえてみせる」と言っています。捕虫網とは先入観、固定概念であって、既存の言葉を当てはめることです。素手で蝶を捕まえるのは大変難しいですが、僕は、評伝を書く、ノンフィクションを書くことは素手で蝶を捕まえることだと思っています。素手で蝶を捕まえるためには、息を凝らした緊張の連続となりますが、そうやって蝶を捕まえ、自分の手についた鱗粉を見せるのが自分の仕事だと思っています。

 僕の仕事の共通のテーマは、高度経済成長とは何かということだと思います。教育と農業の荒廃という側面から『遠い「山びこ」』、メディアの問題という視点から『巨怪伝』、消費という視点から『カリスマ』を書き、『旅する巨人』では精神の変遷・劣化を見たわけです。さらに、最新作の『阿片王』は満州について書いたものですが、僕は、高度経済成長とは、失われた満州を国内に取り戻すゲームだったのではないかという見立てをしています。

 日本の侵略の歴史の反動としての左翼史観によって、満州について書くことが忌避されてきたわけですが、ようやく満州について書けるようになったのは、とてもよいことです。というのは、満州は、戦後の日本について考える時の時間軸をなしていると思うからです。そして、空間軸として重要なのが沖縄です。しかし、沖縄については、まだ十分に語られているとは言えません。沖縄というと、戦争と基地という言葉に掬い取られてしまうからです。沖縄にはそういった言葉では語れない夥しい物語があるからです。戦争と基地といった大文字でしか沖縄の現実が語られないのは精神が弛緩していると言えます。わかったような言葉である大文字では現実は見えてこないのです。

 宮本常一は、決して大文字では語らなかった人だと思います。いつも小文字で語っていたと言えます。大文字言葉の代表は、たとえば小泉純一郎です。俗耳に入りやすいキャッチフレーズで現実をわかったようにしてしまう言葉を語るからです。小泉純一郎について、ぶれないということが言われますが、当たり前です。なぜなら、同語反復だからです。ところが、それをメディアがプラスに評価してしまうからおかしいのです。残念なことに、今、メディアの中を大文字言葉が横溢しているのです。他の例を挙げれば、最近話題になった本のタイトルである「下流社会」というのもまさに大文字言葉だと思います。それがいかに大文字言葉であるかは、足立区を歩いて、その就学援助の実態を見て、聞けば、はっきりします。僕は、宮本常一から、小文字で考える、小文字で書けということを教わったと思い、自分で歩いて、よく見、よく聞き、自分の言葉で考え、書くということを常々心がけているつもりです。

 歩く、見る、聞くということを図書館に引き寄せて言ってみようと思います。本はたくさん出版されていますが、本というものは1冊で単独であるのではなく、言うなれば、本と本の間にあるものです。ひとつの本が次の本を呼んでゆき、星が星座を描くように、本と本の間をつないで自分なりの星座を描いていく。その星座は一人一人違うはずで、それが読書体験だと思います。だから、1冊の良書を薦めるのではなく、むしろ雑然と読めと言うべきでしょう。その意味では、ブラウジングするだけでも、背表紙を見るだけでも世界が違ってくるはずです。だから、いろいろな本がたくさんある環境というのは素晴らしいことなのです。インターネットの検索とは違うのです。図書館の本を見ていると、何か目に入ってくるものがあり、その中に重大なものがあったりするのです。これも、歩く、見る、聞くの一種の変型だと思います。なにも森の中、辺鄙なところを歩くことだけが、歩く、見る、聞くではないのです。

 最後に、林野庁の僕の友人がやっている運動を紹介します。それは、「森の聞き書き甲子園」というもので、森を生活の糧にする技能者から高校生が話を聞く運動なのですが、これはとても重要なことです。というのは、1本の樹を見て何かを感じるか、何も感じないかということは、その国の将来を左右することだと思うからです。こういう運動、教育のベースにあるのも、宮本常一がやってきたことです。宮本常一は偉い人ですが、大切なことは、顕彰するよりも、継承すること、たすきを渡していくことであって、民俗学という分野ではありませんが、ノンフィクション作家として僕もそのたすきを受け継いでいるつもりです。(文責:図書館・鳥居明久)

 講演の後、参加者からの質問を受けていただき、それぞれの質問にとても丁寧に答えてくださいました。熱く語られた佐野眞一さんの言葉の余韻を残して、2時間半以上に及んだ講演会を終わりました。とても有意義な時間でありました。

 なお、講演会の様子はビデオに収録してありますので、観たい人は図書館カウンターに申し出てください。

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